昭和45年04月12日 特別奉修委員
(途中から)
まぁ、感ずるわけなんですけれども、これが、ほんに親の思いだなと思うことがありますけれども。あの信心で言う、親心とは、どういうようなことだろうかと、やっぱし検討して見なければ。皆が、子供もって感じるその心、そのものが、全部親心という事じゃないわけなんですよね。信心させて頂く者の親心と言うのはね。
それは、やっぱ何と言うてもね、私はこう思うんですよ。いわゆる「可愛い子には旅をさせる」と言う心だと思うですね。それから「這えば立て、立てば歩めの親心」というが、親心とはそれだと思うです。もう矢継ぎ早。だから一つのすきを与えない。もう這い出したっち、いうたらもう立てという、そういう教導っていう、それが親心。
同時に、最後に、親心としては、寛大なものね。いわゆる「詫びれば許してやりたいのが親心」。私は、こういう三つの、まだ他にもあるでしょうけれども、親心なら、これは、信心で言う親心だと思うですね。「ただもう可愛い可愛い、もう目の中に入れても痛くない程に」と言うのは、こりゃ、もう信心じゃ絶対、親心じゃないです。
ですから私共、私は今日、その光橋先生のことで、頂いたんですけれどもね、あの、光橋先生の親心は、そういう心から離れておるのじゃないかと思うですね。子供に対する心というのが。それが何時も側におらんで、しとるから、情がいやますわけでしょうけれどね。けども、そこんところを一つはあの、こりゃ光橋先生欠けとるんですけれども。光橋先生に、私が書いてやっとる親心と言うのはですから。
あのまぁ色々考えて見ると、あの何ちいうか、不憫をかけるといったようなのは、絶対親心じゃないね。「はぁそれが、おかげの元になるとよ」と、言いやせんでも、思う心ですね。この親心が、私は信心させて頂く者に大事じゃないかと思うですね。どうぞ。今日は皆さん早くお帰り下さい。もう今日はもう神様が急ぎなさる、急ぎなさる。(笑い)
どうぞ。